明日の恋を咲かせて

Chapter.1

明日の恋を咲かせてⅠ

1-5

※かなりぼかしてますが、体の関係についての話題が出てきます。

 日が沈み薄闇に包まれた廊下を、ラギーは凝り固まった肩を回してほぐしながら歩いていた。

 足につっかけたサンダルは大の男がゆうに十人くらいは横に並べるほどに広い廊下で反響し、ペタペタと気の抜ける音を響かせている。

 一週間ほど前に研究室の室長から押し付けられた古文書の魔力解析も、ようやく終わりが見えてきたところだ。残す仕事は、これまでの解析結果をレオナへ渡せるようにまとめ上げること。

 ひと息に片付けてしまいたい気持ちもあったが、連日の残業により寝不足と疲労が蓄積されたラギーの頭と体は限界に近かった。パソコンに文章を打とうとすればスペルを何十回も間違えるわ、ペンで書こうとすればいくら直しても文字が歪む。

 同僚や室長からの勧めもあり、いったんリフレッシュすべく外の空気を吸いに行くことにしたのである。

 同僚は「顔洗って何か美味いモンでも食ってこい」と手を振ってラギーを見送ってくれたが、彼自身も連日深夜まで業務に追われており、顔色も酷かった。しかし同僚曰く、本来であれば一ヶ月はかかるとされている古文書の魔力解析を一週間で終わらせろという無茶な納期で回されたラギーの顔はそれ以上に酷いらしい。

 同僚の分も、何か疲れを癒せるような食料を持って帰ってやろうと考えていたラギーの目が、前方から歩いてくる見知った姿を捉えた。

 ややくたびれた作業着に、洒落っ気のあるデザインながらも紫外線や強い日差しからしっかり頭を守ってくれると評判らしい麦わら帽子を胸に抱えたは、半年ほど前から離宮で庭師として働いている使用人の一人だ。

 ラギーは、に声をかけようとして上げた右手をピタリと止めた。

 の顔が、遠目でわかるほどに思い悩んでいたからだ。今は面倒ごとに巻き込まれたくはない。がラギーに気が付く前にここを離れるべきか。

 しかしラギーが迷っているうちに、とラギーの間の距離は十メートルほどにまで近付いていた。俯きがちで歩いているはまだラギーの存在に気が付いていないようだが、それも時間の問題である。ラギーが今さら方向転換して去ったところで、この距離では廊下の角を曲がる前に気が付かれてしまうかもしれない。

 そうなると、ラギーがに気が付いていながらあえて声もかけずに無視したという印象を持たれかねないだろう。とはそれなりに良好な関係を築けているとは思っているが、のラギーに対する好感度を下げるような真似は極力避けたかった。

 なにせは他の使用人たちとは違い、ラギーの雇用主でありかつ夕焼けの草原の王子という貴い身分でもあるレオナにとっての『特別な人間』なのだ。だからこそ、ここでを無視するよりも、の悩みを聞き恩を売っておくのも悪くは無かった。もちろん、悩みの内容如何ではあまり深入りせずに手を引くつもりでいるが。

 ラギーはなるべく下心が表に出ないよう意識しつつ、にこやかに笑みながらを呼び止めた。

「どーも。今日はもう終わりッスか?」
「あ、ラギーさんこんばんは……って、ずいぶん疲れた顔してるけど、大丈夫……?」

 顔を上げ足を止めたが、ラギーの顔を見るなり案じるように眉を下げた。そう言うの顔こそ、普段植物を前にしているときのような生き生きとした表情とはかけ離れている。

「それはお互い様ッスよ。あんまり暗ーい顔して歩いてると、レオナさんに報告されちゃいますよ」

 レオナが常にの様子を気にかけていることや、と関わる機会の多い者たちに高い頻度で探りを入れていることは、もはや離宮内では知らない人間がいないほどである。そのため、の異変に気が付いた者はそれとなくレオナへ報告を上げるのが暗黙の了解にもなっていた。

 ラギーの言葉に、がぱちくりと目を瞬かせる。

「私、そんなに顔に出ちゃってた?」
「あきらかに悩んでますーって顔してましたね」
「そう……気を付けるわ。レオナさんはただでさえ忙しいんだから、余計な心配の種を増やしちゃ悪いものね」

 顔の筋肉をほぐすようにもにもにと頬を揉むに、ラギーが尋ねる。

「で、どうかしたんスか? 今なら特別に聞いてあげなくもないッスよ」
「…………見返りは?」
「ヤダなぁ、俺とアンタの仲じゃないッスか。ここは『ラギーさんって良い人ね』って思ってくれればじゅうぶんッスよ!」
「……私からレオナさんに何と言おうが、特に評価は変わらないと思うわよ? そもそも、レオナさんとの付き合いは私よりラギーさんの方が長いでしょうに」
「そこはホラ、第三者からの印象を知ってもらうってのも、割と大事なんスよ〜」

 へらりと笑ってみせれば、は呆れたような顔をして「まぁ、聞いてくれるって言うならお願いするわ」と肩をすくめた。

 とりあえず二人揃って廊下の端へ移動し、壁に背を預けてからが口を開く。

「実は悩み、というか……その……」

 話しづらい内容なのか、がゴニョゴニョと小声になり言葉を噤んでしまう。しかし次の瞬間、の顔がはたと何かを思い出したような表情へと変わると、その肌が一気に赤みを増した。

「あぁぁぁ…………!!!」
「うわっ、何スか怖ッ!」

 かと思えば、が突然大きな声を上げて叫び出したではないか。頭を抱えその場に蹲ったの奇行に、ラギーは思わず後ずさった。

 そのまましばし待てども、はしゃがみこんだままピクリとも動かない。そして、の方からは何やら唸り声のような音まで聞こえてくる。ラギーは小さくため息を吐いた。

 と同じように膝を折って覗き込めば、その顔は先ほどよりもさらに真っ赤に染まっている。

「変なモンでも食いました?」
「……何で皆最初に心配するのがそっちなのよ……」
「や、なんとなく一番可能性が高いんで、つい」

 冗談半分、本気半分で笑って誤魔化せば、が「そんなに食い意地張ってないわ」と不満げに唇を尖らせた。むすくれるを宥め、ラギーは話の続きを促す。

「ラギーさんは知ってるのよね?」
「どれをッスか?」
「レオナさんと私の、その……関係、のこと……」
「あぁ、まぁレオナさんから聞いてますよ」

 レオナはハンスとラギーにのみ、自らの口でとの関係が恋仲へと進展したことを報告したらしい。

 ラギーはレオナが事実を伝えると決めた面子の中に何故自分も含まれていたのか直接確かめてはいないが、おそらくはに外部から何かしらの危害を加えられた際、ラギーが最も彼女を守りやすい立場にあるからだろうと推測していた。

 にとっての上司という立場を鑑みれば、ハンスの方が適任のようにも思える。しかし彼は事務官としては秀でていても、魔法や体術などを得意としているわけではない。

 を物理的に守るとするならば、とも面識があり、かつ魔法士の資格を有しているラギーの方が実戦においては適しているということである。

 離宮において魔法士の資格を持つ者はレオナやラギーを除くと、あとはもう一人、研究室の室長しかいなかった。室長はおそらくとの面識は無いだろう。

「…………」
「お」

 が無言で立ち上がる。ラギーもに倣う。

 そしては、意を決したような顔でゆっくりとラギーを見上げた。

「……キス…………」
「はい?」
「キス、を……拒まれたら……どう思う……?」
「……………………」

 そう来たか。

「拒んだんスか?」
「…………」

 が無言で頷いた。

 レオナの名前が出てきた時点でうっすらと予想はしていたが、どうやらはレオナとの恋愛について悩んでいるようである。

「む、無意識だったの。自分でもどうしてかわからなくて……き、キスされるってわかったから、ちゃんと身構えたのに……」
「うーん……俺も別にそっち方面は経験豊富ってわけじゃないんスけどねぇ」

 ラギーは恋愛相談なら他を当たった方が良いと提案してみようかとも考えた。しかし、の「街のドーナッツ屋さん、今度期間限定のフレーバーが出るんですって……」という言葉ににこりと笑みを浮かべた。

 の言う期間限定のドーナッツは、マジカメで広告を見かけて気になっていたものの自分では買いに行く暇が無さそうだと諦めていたものだ。

 そのまま続けるよう促せば、がキョロキョロと周囲を確認してから声を潜めて話し始める。

「レオナさんに触られるとね、落ち着かないの。頭を撫でられたり、普通の触り方は大丈夫なのよ。でも手を繋いだり……その……いかにも『特別』って触り方がね、全然駄目なの」
「駄目って?」
「……こう、胸がぎゅーーーって、なって、心臓が痛いくらいドキドキしちゃうの……レオナさんはいつも私が落ち着くまで待ってくれてるんだけど、全然慣れる気がしないわ……」

 が胸を押さえて、ずるずると壁伝いに座り込んだ。まだうっすらと赤い顔のまま、ほう、とため息を吐く。

「レオナさんが私の恋人って、何だか変な感じね」
「え、そんな今さら」
「だってずっと追いかけてるだけだったんだもの。それなのに急に手を繋いだり触れ合ったりするような関係になるだなんて、思わなかったのよ」
「一度も? 初恋なんじゃなかったんスか」
「初恋、なんだとは思うけど……」

 煮え切らない様子のが再び唸り始めた。話が長引きそうなので、ラギーもその場に腰を落ち着ける。

「前に言ってたじゃないスか。レオナさんの笑ってる顔が好きだって。喜んでる、幸せそうな顔をしていてほしいって。自分がそんな顔をさせられる立場になれたんスよ。嬉しくないんスか?」

 ラギーの問いに、は眉を下げた。

「もし私がレオナさんのこと喜ばせてあげられるなら、そりゃあ嬉しいわよ。でも……」

 が目を伏せる。

「レオナさんは、私のどこが好きなのかしら」

 その言葉は、ラギーに尋ねているというよりも、自らの中に答えを探しているような口調だった。

「それはいくら考えたって、本人にしかわかりませんよ」
「だってレオナさんには聞けないし……ラギーさん、レオナさんが好きそうな私の魅力、思い当たる?」
「えぇ……それはまた難しい質問をしてきますね」

 咄嗟に答えられないラギーに、は「一つくらい思いついて欲しいわ……」と悲しげな声で嘆いた。

「そもそも、男の人ってこんな子どもみたいな女を抱きたいと思える? ラギーさんはどう思う?」
「そんなあけすけな……コレはノーコメントでお願いします」

 確かに男女の恋愛の話となれば体の関係についての話題も出ることはあるだろうが、ラギーはの口からその手の話題が出てくるとは思っていなかった。

 いちいち恥じらうような年頃でもないので答えてやるのもやぶさかでないが、から投げかけられた質問は正直かなり答えづらい内容だ。

 要は、に対して邪な感情を持てるかどうか想像してみるということに他ならない。たとえ話だろうが、さすがに知人の恋人に対してそれは避けたいところである。万が一にもレオナの耳に入ったときのことも考えると、には悪いがこの質問には答えるわけにはいかない。

 答えられないと断ったラギーに不満そうではあったが、ラギーが手でバツ印を作り断固拒否の姿勢を見せるとさすがに諦めたようだ。渋々引き下がり、次の話題へと切り替えてくれた。

「でも、恋って『そういうこと』もしたくなるものなんでしょう?」
「んー。それだけでも無いと思いますけどねぇ」

 現に、体の関係を持たずとも恋人として仲睦まじく過ごす者たちだっている。しかしはそうは思わないようで「でも『そういうこと』が無いなら、そんなの子どもの恋愛と変わらないんじゃないの」と唇を尖らせた。

「大人の恋愛じゃなきゃ駄目なんスか?」
「駄目ってわけじゃ……ないけど……」

 はずいぶんと『大人』と『子ども』というくくりにこだわっているようだ。二人は一回り以上も年齢が離れているので、自然とその差を感じる機会は多くなるだろう。そういった場合、特に年下側がコンプレックスを抱くパターンが多い気もする。もその口だろうか。

「レオナさんは大人だから……こんな子ども相手じゃ物足りないんじゃないかしら。こんな……キスもまともにできないような女……いつか、飽きられちゃうかもしれない」

 の周りの空気が重みを増し、どんよりと曇る。

 ラギーはため息を吐いた。

「アンタが子どもっぽいってのは否定しませんけど」
「う……」
「それでも、レオナさんからキスしようとしてきたんでしょう。それなら少なからず『そういうこと』をアンタにも求めてるってことなんじゃないッスか」
「それなら、やっぱり呆れられたんじゃ……!」
「まぁそりゃ、拒まれたら何も感じないこたァ無いでしょうけど。でもレオナさんはアンタが恋愛のアレソレに慣れてないことはじゅうぶん承知済みでしょうし、大丈夫っしょ」

 ラギーから見ても、レオナはとの関係についてはかなり気を遣っているようにも思える。よほどのことが起きない限りは、レオナからを突き放すようなことは無いだろう。

「そういうの、どうしたら慣れられる!?」
「それはまぁ……経験積むしか無いんじゃないッスか」
「でもでも、次もまたできなかったら……!」

 ……なんか、段々面倒くさくなってきたッスね。

 なかなか進展しない話に、ラギーはすでにかなり飽きてきていた。はなかなか図太い性格だと思っていたが、意外にも繊細な一面があったようである。先ほどから同じ問題でぐるぐると悩み続けているの顔を眺めながら、ラギーはあることを思い付いた。

「もういっそのこと、今からレオナさんのところに行ってアンタからキスしてみたらどうッスか?」
「ッ!? 何でそうなるのよっ」 

 目を剥いて詰め寄ってくるに、ラギーはへらりと笑いながら説明してみせる。

 の話を聞いている限りでは、要はレオナの側からことを進められてしまうと感情が追い付かなくなるということなのだ。ならば、の側で自身の感情に合わせたペースというものを作ってしまえば良い。が関係の主導権を握ってさえしまえば解決する話だと考えたのだ。

 もちろんレオナが完全に主導権をへ譲るような事態はあり得ないだろう。これはあくまで、からもレオナに対して『素直になれないけど触れたいと思っている』という気持ちを伝えることを目的とした作戦だ。

「っそんなこと…………そうなのかしら?」
「やってみたら意外といけるかもしれないッスよ」

 顔を赤く染めつつもがラギーの案に乗り気な様子を見せたので、さらに背中を押してみる。

「むしろ喜ぶんじゃないッスかねぇ。惚れた女から積極的に触れられて嫌な男はいないはずッスから」
「な、なるほど……レオナさんも嬉しい……? それなら……」

 もうひと押しか、というところで、がはたと何かに気が付く。

「……でも、やっぱり今すぐには無理だわ。『日が沈んでからは緊急の用事以外で会いに来るな』って言われてるの」
「日が沈んでから? 何でまた」
扉を閉めちゃいけない・・・・・・・・・・のと同じ理由ですって」
「……ふぅん」

 どうやらレオナは、まだとうぶんとは一線を超える気は無いようである。そしてレオナとの仲を知る者たちにも、二人は健全な関係のままであるということを知らしめようとしている。

 こういった日々の中での細やかな配慮は、いざというときに役立つものだ。レオナなりの気遣いを無下にしてしまうのは、野暮というものだろう。

 ……ん? だが以前、レオナが日没後に中庭近くの廊下をうろついている姿を見かけたことがあった気がするが……

 首をひねるラギーだったが、なんとなくあまり深く考えない方が身のためのような気がしたので、すぐにその記憶を彼方へと押しやった。

「レオナさんは私のために色々考えてくれてるんだと思うから……私がそれをわざと蔑ろにするようなことをしたら、それこそ嫌われちゃう気がするわ」
「そうッスねぇ」

 仕方がない。とはいえ、この作戦自体はすぐに実行できないだけで明日にでもが頑張れば良い話でもある。

 ラギーはレオナが昼間であれば毎日のようにに会いに行っていることを知っている。多忙のあまり寝る暇すら無いときですら息抜きと称して中庭を訪ねているほどなのだから、明日も会えないことは無いはずだ。

 ラギーはチラと横目でを見やった。

 も夜でさえなければラギーの作戦は決行可能だということに気が付いたようである。先ほどから「私から……でももしはしたないだなんて思われたら立ち直れないかもしれないわ……ううん、でも、たまには頑張らないと」などとブツブツ呟いている。

 これはレオナの反応が楽しみだ。

「良い報告を期待してますよ……っと」

 話をまとめようとしたところで、ラギーはを挟んだ廊下の奥から歩いてくる人影に気が付いた。何やら気配を抑えているようにも感じられるが、あれは——

 ラギーはを見るが、どうやらはまだ背後から近付いてくる存在には気が付いていないようである。まだ別のことで頭がいっぱいのようであるし、普段よりも気配が薄いことからおそらくかなり近付くまでは気が付かないだろう。ラギーはその人物の意図を察し少々呆れながらも、徐々に輪郭のはっきりしてきた影から目をそらした。

 そして、

「こんなところで何してんだ」

 背後から突然声をかけてきたその人物に、は文字どおり飛び上がった。